ベルリン藍
べるりんあい
天然の呉須に対して、化学合成された酸化コバルトがベルリン藍。「ベルリンからやってきた藍」を短くしてベロ藍と呼ぶようになったといわれている。強烈な藍の色が特徴であるこの新しい染料が日本に入ったのは、瑞穂屋卯三郎という人がパリ万博の土産として持ち帰ったのが最初といわれる。1867年(慶応3年)のことだ。ベロ藍は簡単に使えたので、当初はもっぱら印判に使用されていたが、明治時代になると染付にも使われるようになった。やがて、明治の焼き物の青といえば、誰もがベロ藍を思い浮かべるほど一気に浸透したのである。大量生産向きのベロ藍は、印判であれ染付であれ雑器の部類に入る。鮮やかすぎる藍を嫌う人も多いが、この時代独特の文様や印判ならではの細部に渡るまで密な描き込みと、人工的な藍の取り合わせに味わいを感じる人も多い。また輸入ものの合成染料ということで、欧米の技術や工業製品を次々取り入れた明治という時代を感じさせる独特の魅力を持つ焼き物ともいえる。印判の開発を行ったのは美濃である。美濃でのベロ藍による印判の方法は、銅版絵付というもので、これは、うつし絵の方法と同じようなものと考えればいい。この成功よって、瀬戸でもベロ藍が使われるようになり、やがて全国の窯へと広がっていった。ところで、ベロ藍とはもともと泥絵に使う粗悪な人工顔料のことだった。合成コバルトが使われはじめた頃の焼き物がレベルの低い絵付だったためである。ところが、銅版という技巧ができて、ベロ藍は独特の細かな文様を生み出した。白と藍のくっきりとしたコントラストが美しく、丈夫で値段も手頃。ベロ藍のよさはそこにある。 ベロ藍が使われはじめるとそれ以前は高級品だった染付の器は、一気に民衆へと広まった。ベロ藍は、布にも陶磁器にも使える染料である。美しい藍の色合いを出すこの青のおかげで、藍の磁器は庶民の食卓にも並ぶようになる。くらわんか、そば猪口など民衆の生活に根付いた品が生まれ、庶民の食卓に食器が定着するのは明治時代のこと。この頃のものは「文明開化もの」と呼ばれる。稀少だった藍をふんだんに使えるようになった喜びが溢れ出るような、豪放で、発想豊かな絵付が多く、見ているだけでも楽しくなる。(骨董ファン Vol.17より)
明治時代。ベロ藍入隈大皿。
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