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第6話 アンティークの素材と歴史  〜びーどろとギヤマン その6〜
■薩摩切子の栄枯盛衰

 ともかく紅ガラスである。集成館には紅ガラス用のかまどは4基あった。
ちょっと沈んだ深い銅赤用が2基、透明紅色を発する金赤用が2基である。
けれどやはり金赤を出すのは難しかったのだろう。
当時いくつかの完成品はあったとされるが、それを確証するのはかなり難しい。かまどまた、ここには他に水晶ガラス用のかまどが1基、鉛ガラス用が大小あわせて数基、そして板ガラス用が1基あったらしい。
この板ガラスというのも、当時はかなりの技術が必要だった。
ガラスを型に流し込み、それに磨きをかけるのが大変手間がかかったのである。
それに経費もかなりのものだった。

  このように、集成館のガラスは日常に使うものから賛沢品まで、各種各様だった。ガラスエ場では働く人数だけでも100人を超えていたと1858年にここを訪れたオランダの海軍医ポンペという人が書き記している。
薩摩で使っていたガラスを溶かす燃料を白炭という。
なら樫や楢や粟などを石釜で焼いて、釜の外で土や灰を被せてつくられるものだが、その火力を強めるためには風がいる。
その風は水力だった。
集成館はこの水車用の水路をつくり、夫々的な水車も回されていたのである。
この水力はもちろんガラスエ場用にも使われていたが、反射炉用にも使われている。

 集成館がいかに様々な産業を考え、連結させていたかがわかる。
また、こ;には日本で最初のガス灯も点された。
それは現在、尚古(古い時代の文化、社会、制度などを尊ぶこと)集成館として島津家の歴史を物語る資料せんがんえんを展示した博物館の前で、今も名勝を誇る仙厳園の石灯とも篭に点されていたという。
この集成館の産物で最も世界の脚光を浴び、賞賛されけんらんたのがあの豪華絢燗な薩摩焼きである。
この焼き物によって薩摩はパリの万博でも注目を浴ぴ、まるで日本という国とは別の薩摩という豊かな国があるかの印象すら与えたのである。
斉彬はきっとこの薩摩切子も薩摩焼きと同じように世界にはばたかせようとしたのだろう。
しかし、薩摩焼きは戦国時代からの長い歴史があった。ガラスはたかだか江戸期後半の何十年である。
 

 

   だから世界は夢のまた夢、日本中にもわずかにしか広めることがでず、またそれだからこそ幻のガラスとまで呼ばれるようになったのである。
1862年、斉彬は突然病死した。
そして彼の世界に向けた夢は終った。
次の藩主は彼の息子、忠義が継いだが、その後見人となったのがお由羅の息子、久光だった。
久光は集成館の事業を大幅に縮小した。
ガラスエ場もいきなり10数人の技術者に減らされたのである。
斉彬の死の翌年8月、東海道神奈川宿の漁村で日本をしんがん震憾させる事件が起こった。
生麦事件である。
薩摩藩の島津久光一行が江戸から帰国していた時のことである。
当時の薩摩は攘夷運動まっさかりだった。
その行列を、日本の風習を知らない馬に乗った4人のイギリス人が乱したのである。


 

薩摩切子藍色切子脚付蓋物 江戸時代

 
それに怒った過激な薩摩藩士がイギリス人1人を斬り殺し、2人に重傷を負わせたてしまった。
これに対し、イギリス政府は幕府に10万ポンドの賠償金と謝罪を、そして薩摩藩には2万5000ポンドの賠償金三犯人の処刑を要求したのである。
幕府はこれに応じたが、薩摩藩は突っぱねた。
イギリスは7隻の艦隊を派遣して直接交渉した。
しかし、薩摩は決戦覚悟で話は決裂。その日は折りからの台風で、波は高く、風は強い、横殴りの暴雨が薩摩地方一体を覆っていた。


 

 


   

 そんな中、薩摩とイギリス艦隊の決戦の火蓋が切って落とされた。
これが薩英戦争である。
勝利の軍配はイギリスに上がった。
しかしイギリスは死者60人を出し、戦艦を破損し、ほうほうの体で横浜に引き返したのである。
戦いの終った薩摩は城下の約1割が灰となった。
この時、あの集成館は消滅したのである。
そして同時に薩摩のガラスの重要な資料が跡形もなく焼けてしまったのだった。
薩摩はそれでも何とか工場群を再築し、ガラスエ場も細々と動き始めた。
けれど、もうかつての斉彬の頃の繁栄は望むべくもなかったのである。

 しかし工場がなくなっても、資料がなくなっても、職人達の鍛えられた技は消え去るはずもなく、江戸に、あるいは大阪にそれぞれ新天地を求めて散っていった。
そして細々とではあるけれど、確実にその腕を生かし、「ギヤマン」と呼ぶにふさわしい美しい輝きのガラスは受け継がれていったのである。
いつしか時代は明治を迎え、気がつけぼ食器にランプに窓にと、当たり前のように生活の中でガラスは必需品となっていた。
しかし、それはソーダガラスという安価で型ものとして大量生産できるガラスだった。

 それはギヤマンでもび一どろでもなく、ただ単にガラスと呼ぼれるものだった。
時のかなたに消えてしまったその美しいカットや消え入りそうに薄いガラスを思う時、それらのガラスよりももっとキラキラと輝かせながらガラスを見つめた先人達のまなざしが浮かんでくる。
 



 

資料提供:骨董ファンVol.10
 
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