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![]() 薩摩切子碗と紅色切子碗 江戸 ■幻の薩摩切子、誕生 日本中を「あっ」と言わせるほどのお家騒動が薩摩で起こったのは、そんな亀次郎が薩摩に来て3年目のことである。 藩主の座を斉彬にゆずりたくない斉興とその側室のお由羅が、彼女の子、久光を藩主にしようと斉彬派の武士たちをを捕縛、殺害したのである。 それまでもお由羅はあの手この手で久光を立てるための謀略を立てていた。 斉彬には7人の子供がいたが、そのうちの6人が不思議な死を遂げているのである。 お由羅が祈梼師を頼み、呪い殺させたという噂がたった。 本当かうそかは定かではないが、あるいは直接手を下したのかもしれない。 これが世にいうお由羅騒動である。 そしてこの1848年の鬼気迫る徹底的な粛清が、お由羅騒動の頂点ともいえる「高崎くずれ」といわれた事件なのである。 これが斉興の最後の抵抗ともいえた。 やっと斉彬が藩主の座についたのはその3年後のことである。 ここで彼はそれまでたまっていた鬱憤を一気に爆発させたのである。 まず手を着けたのが殖産興業、富国強兵である。彼は藩のあり方を根底から改革しようとした。 大工場プロジェクトを組んだのである。 彼はまず、島津家が代々別邸として使っていた磯庭園の周辺一帯の竹林を切りてを開いて大工場群にした。 その御殿の庭のつくりは、何と煙を噴いて雄とそぴえる桜島を築山に、そして太平洋につながる錦江湾を池に見立ててつくられた天下の絶景なのである。 そこに薩摩中に散らばっていた産業を集結した。 その設備を数えあげると、反射炉、製鉄熔鉱炉、大小砲鑽開台、鋼鉄製造場、磁器製造窯、陶器製造窯、抄紙場、胡粉製造所、洋法搾油器械、農具製造場、刀剣製造場、工匠器械製場、鉛粉製造所、氷白糖製造所、地雷水雷製造所、獣皮消軟所、皮革器械製造所、膠製造所等々、そしてもちろんガラスエ場もつくったのである。 ここを集成館と呼んだ。 集成館はそれまでの各々の技術を生かしつつも、ヨーロッパや中国の近代技術をどんどん取り入れた、まさに藩を挙げての大工場群となったのである。 ここであの幻の名品とまでいわれる薩摩切子が生み出されたのである。 四本亀次郎も期待に応えてがんぱった。 腕はよかったので、丁寧な扱いを受けていた。 斉彬自身が酒癖の悪さも弁護したりする場合があったようである。 |
■薩摩切子、その秀逸 それにしても薩摩のガラスはよくできたガラスだった。透明で重厚感があり、加えて多彩なのである。 それは今まで日本で生み出し得なかったガラスだった。 しかし、物事には例外がつきものである。 もともと透明のガラスや切子は江戸や大阪のほうが先輩なのである。 だからこれもいまだに本当に薩摩のガラスなのかどうか不明なものがある。 そして残念ながらそれも特定できる決定的な証拠がないのである。 今残っている薩摩のガラスを破壊粉砕してその成分を調べ上げ、そしてまた不明と思われるそのガラスをも破壊粉砕して…と、とんでもない行為を実行しない限り、今のところ判別はむつかしいようである。 それに薩摩切子は日本的なデザインが多いが、イギリス風のものも多く、またあまりに見事だから、他の地でつくられたものよりも、もっと輸入物と混同されて、いまだに謎に包まれているのである。 しかし薩摩のガラスがなぜああまでも透明で厚くできたのか? そこが不思議なところである。 江戸期のガラスは原料中に含まれている鉄分、その他の不純物が多く、どうしても淡い黄緑色などの色を帯ぴることが多い。 また、厚くすればするほど、その冷却の難しさから白く濁り、脆くなってひぴが生じてしまった。 それなのに薩摩のガラスは厚手でさらに被せてあるのだ。 おまけに切子までしている。 これはすごい技術なのである。 ガラスは色をつけるために、様々な鉱物等を混入する。 だから色を被せた場合、それそれの色の成分が違い、冷却するとき、それによるひずみでガシャリと割れてしまうのである。 残念ながらその冷却方法の資料はないが、薩摩切子全般にいえることは、ガラス本体を軟らかくして細工しやすくするために鉛を限界ぎりぎりまで入れたことである。 今なんてせいぜい25%程度しか入れないのに、当時は時に40%を超えることもあった。 それ以上になると鉛は鉛として残ってしまうのである。 例えば、透明の薩摩切子を丹念に見ると、溶けきれずに凝縮された小さな鉛の玉が発見できることさえある。 そこまでしなければカットができなかったのだろう。 カットにはある程度の硬さと、そして矛眉するようだが軟らかさが必要なのである。 薩摩の色付切子の魅力のひとつに「ぼかし」という技法がある。 | 透明のガラスの上に色ガラスをかけてカットする訳だが、ヨーロッパのガラスだと、その切り込みのV字形が鋭くて、透明と色ガラスの境界線がくっきりと出ている。 しかし、薩摩切子の場合は、そのV字形の角度が大きいのである。 だから、境界線が淡くぽけるのである。 このぽかしは世界に類を見ないものなのである。 そしてそれはいかにも日本人の淡い、あやうい、そして優しい、あいまいな美への憧憬にマッチするのである。 そして、そのカットに使われている色である。 赤いガラスなのである。 薩摩の生み出したこの赤ガラスは「薩摩の紅ガラス」と呼ばれている。 赤い色を出すためには銅を加える方法と金を加える方法とがある。 どちらの方法もかなり高度な技術がいるが、この薩摩の紅ガラスの場合、ヨーロッパや中国の製造法の流れを汲んでいるものの、ややこしい独特の方法を生み出しているのである。 特に金赤は当時のヨーロッパでもかなり難しいとされていたシロモノなのである。 斉彬はよほどこの赤の完成が嬉しかったのか、子供のように無邪気に喜んで、いろいろな人に自慢までしている。 これは冷静沈着な彼にしては珍しいことだけれど、彼の素直な一面を見るようで何とも微笑ましい。 ここに1つの古文書が残っている。 それは福岡藩主の黒田隻簿が宇和島藩主伊達宗城に送った手紙で、そこには「あなたも斉彬から紅ガラスをもらったそうですねえ。斉彬はあの紅ガラスをすごく自慢しているんですよ」なんて書いてある。 ちなみにこの黒田長薄は斉彬の大叔父・つまり曾おじいちゃんである蘭癖大名重豪の息子にあたる。 この長薄、斉彬より2つ若い。 ということは、重豪はひ孫より若い子供をつくったということになる。 ちょっと余談になるが、このガラスを贈ったるほめたりした3人の姻戚大名、そして佐賀藩主の鍋島閑叟などの大名が蘭学を保護し、開国にむけて力を注いだ立役者だともいえる。 薩摩切子 紅色切子三段重 江戸 | ![]() |
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