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第4話 アンティークの素材と歴史  〜びーどろとギヤマン その4〜


ボンボン入れ 江戸後期〜明治初期

■和製ギヤマンの誕生


 時代はもう江戸の末期に入っていた。
この頃、江戸に加賀屋久兵衛という男がいた。
江戸でガラスを商う2大問屋、加賀屋と上総屋のいうまでもなく加賀屋の方の手代だった男で、当時江戸より技術が進んでいた大阪に修業に出て、後に分家を許され、この名を名乗ったのである。

  通称加賀久というこの男、かなりの技術を持っていた。
当時はカットのことを切子といったのだが、その切子ぐらいはやすやすとこなした男である。
ということは、彼が修業に行った大阪でも、そのお隣りの京都あたりでも、切子はつくられていたようだ。

 彼の店で発行された引き札が残っている。引き札とは今でいう店のカタログ、チラシのようなものである。
絵入りのその引き札には、切子が施された様々なガラスが載っている。

 グラスやデカンタ、蓋付きの器や三段重ねの切子重箱なんてものもある。
その中に混じってビーカーや試験管らしき理化学用のガラスも入っている。
この頃にはもう蘭学と呼ばれたヨーロッパの学問がかなり日本中に浸透し、その必要性から酸に耐える硬質なガラスがつくられていたのである。


 この硬質のガラス、実は生みの親はあの佐久間象山らしい。佐久間象山といえば、様々な蘭学を極めた気鋭の洋学者で、自他ともに天才と認める男である。

 「これからの時代、攘夷はいかん。東洋の道徳と西洋の技術がそろってこそ完全なものになる」と言って蛤御門の変に先立つことわずか6日、京都三条木屋町で殺された。

 そんな彼がほう砂というものを使って硬質ガラスの製造に成功し、これを加賀久に伝授したらしい。
だから各地である程度は「ギヤマン」と呼ぶのにふさわしいヨーロッパ風のガラスが生まれてはいた。

 けれど、いくら加賀久ががんばろうと、佐久間象山が大天才であろうと、やはり輸入品に比べると、見劣りする。

無理もない。しょせん個人レベルである。
規模が違う。原料だってそうそう得られるものではなく、その原料の中でも鉛はすこぶる高かった。




切子馬上杯 江戸後期〜明治初期

■薩摩藩登場  

 しかし、ここに藩をあげて全精力を注いでギヤマンをつくるところが出現した。
それが薩摩藩である。
そして今や日本中を探しても100-200個くらいしか確認できず、もし値段なんぞつけようものなら、何千万円単位にもなるという恐ろしくも美しい薩摩切子をつくりはじめたのである。

 最初、薩摩でガラス製作を改革しようとしたのは、実はまったく実用の面からだけの発想だった。
薬を入れるぴんが欲しかったのである。
1840年代半ばの27代藩主、島津斉興の頃である。
この20-30年前からそろそろ日本中の港にイギリスやアメリカやロシアなど、いろいろな国の船がやってきて、開国をせまり始めていた。
    日本がやっと300年の鎖国の眠りからさめようとしている頃である。
あまりにいっぱいの船が来るから臆病風に吹かれたのか、面倒くさくなったのか、幕府はこれより20年程さかのぼる1825年には外国船打払令などという過激な法令を発布して、外国船を見たらただちに発砲してもよろしいなどと言い、諸外国をあきれさせた。

 しかし動乱する世界の流れの中にあって、日本だけ安穏としていられる時ではなかった。
1840年にはアヘン戦争が起こり、揺るぐことがないと、信じきっていた大国中国がイギリスの植民地になりかけている。



菊皿5枚組 江戸後期-明治初期


 島津斉興が「薩摩でガラスをつくるぞ」と言った10年後にはもうペリーが浦賀にやってきて、その1年後にはアメリカと和親条約を結ぶことになったのである。

 この世界の動向を見つめ、日本の無防備、無知を憂い、何とか日本の意識を世界レベルに高め、そして対等に外国と対山寺すべきだと考えていた男がいた。
それが斉興の息子、斉彬らである。
しかしこの時、まだ斉彬は部屋住みの書生同然の立場にあって、もう30代も後半になっているのに何の力も持っていなかった。

 当時の感覚でいくと、60歳を迎えようとする父、斉興はとっくに息子に藩主の座を明け渡しているはずなのである。
それなのに、その気配は一向になかった。

 いろいろ原因はあるが、中でも大きな原因となった彼の曾おじいちゃんである。
曾おじいちゃんの名を量豪という。
「蘭癖(オランダ好み)大名」などといわれ、西洋の知識を吸収し、西洋の品を買い集め、日本に2人の将軍がいると噂されるくらい栄華を極めた男である。

 しかし腕はよかったらしい。
何しろ加賀久からガラス技術を学んだのである。
佐久間象山からだって学んだかもしれない。
しかしこのあたりの亀次郎の素性はあまりはっきりはしていない。
薩摩のガラス職人達は酒を飲んで無茶苦茶を言い始める亀次郎に耐えつつ、懸命に技術を身につけた。

 この時代に彼はローマ字でおしやれに日記なんか綴っている。
どうしてそんなに薩摩の殿様はハイカラなことができたのか。
ひとつには薩摩が日本の最南端にあったからである。
当時、もっと南にある沖縄は琉球王国という外国だった。

いくら日本が鎖国であろうと、そんな政策で地形まで変えるのは不可能である。だから止めてもヨーロッパや中国の船は琉球にやってきた。
薩摩は1609年からこの琉球を属国にしていたのである。
薩摩は密輸もやりたい放題である。
もちろん違法ではあるが、しかしそこは暗黙の了解というやつである。

 
 



青色向付 明治初期

 ある人はこう説明してくれた。
「いえ、琉球は薩摩の植民地だった訳なのです。
けれど琉球はあいかわらず外国でした。
外国ということは交易が自由な訳で、その外国を統治しているのが薩摩なのですから、統治している国から物資を入れるのは当然な訳です。
ということは別に薩摩は密輸をしていた訳ではないのです。
ただ、薩摩という国には鎖国がなかったと考えられる訳です」まるでパラドックスで、かなり強引ではあるけれど、そうだと言われてしまえば、そう…なのかもしれない。

 しかしいくら外国と交流して金儲けができようと、琉球の人間を農奴同然に働かせてサトウキビを山ほどつくらせ、日本中にばらまこうと、重豪の金遣いに追いつくことはできなかったのである。
彼はつくれるだけの借財をつくって、さっさと引退してしまった。
苦労したのはその息子と孫だった。
彼等は、爪に灯を点すように節約して、やっと借金を返したのである。
 
 そんな子や孫の苦労を横目で見つつも知らん顔で余裕綽々、気ままな引退生活を送っていた重豪、これがまた88歳まで長生きしたのである。
そして自分の世界感をひ孫の斉彬に叩き込んだ。
彼は斉彬が25歳になるまで生きていたのである。
彼ら2人は連れだって江戸に来たシーボルトにだって会っている。
斉彬、多感な18歳の時である。
だから斉彬の外国通はそんじょそこらの付け焼き刃とは訳が違うのである。

 ただ、斉彬が曾おじいちゃんと違っていたことは、ヨーロッパに憧れ、ヨーロッパの学問を学んで、そこの品を得、ヨーロッパ人のようになりたいなどとは思っていなかったことである。
彼はどうにかして産業を発展させ、その上で開国し、ヨーロッパと正常な関係で日本という国を守ろうとしたのである。

 しかし、そんなこと、財政立て直しに奔走している父親、斉興にわかってもらえるはずもなく、ただの無駄遣いなドラ息子にしか見られなかった。
薩摩にガラスの新技術がやってきたのは、そんな斉彬が悶々と江戸屋敷で悩んでいる頃だった。

 前記したように、斉興は、ただ医薬品用の酸に強いガラスを求めていた。
そこで、江戸の加賀屋久兵衛のところにいた四本亀次郎という男を招いたのである。

 この男、酒癖が悪かった。
酒を飲んでは暴れる、からむと手のつけようがない。
薩摩男児相手にしょっちゅうケンカをふっかける始末である。

  しかし腕はよかったらしい。
何しろ加賀久からガラス技術を学んだのである。
佐久間象山からだって学んだかもしれない。
しかしこのあたりの亀次郎の素性はあまりはっきりはしていない。
薩摩のガラス職人達は酒を飲んで無茶苦茶を言い始める亀次郎に耐えつつ、懸命に技術を身につけた。

資料提供:骨董ファンVol.10
 
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