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切子 ワイングラス 江戸
■び一どろとギヤマンとは?
ではその摩詞不思議なガラスがとこでどのようにつくられ、いつ日本にやってきて、はじめはどのようにつくられたのか?それがまた訳が分かっていないのである。
ガラスの生い立ちも成分も明らかではなく、それどころか長い歴史の中ではちょっと前でしかない江戸期のガラスにしても、現存しているのはほんのわずかで、いまだガラスの製造時期を推定する基準さえないのである。
あのガラスの透明さとは裏腹に、その存在はやけに不透明で靄の向こうなのである。
ガラスの紀元をたどれば、それはもうはるか昔の太古の世界になり、いつ日本に入ってきたかなんて知る術もない 。
ただ、縄文の頃のガラス玉が残っていたり、
井上靖の「玉碗記」という小説で有名になった正倉院に収められている白瑠璃碗が、6世紀のペルシャササン朝のもので、実はそれと瓜ふたつのものが日本に存在していて最近になって巡りあったなんてロマンチックな話もある。
だからガラスはポルトガル人がやって来た時にいきなり日本に来た訳ではなく、何だかはわからないけれど、「何かこんなふうにして固めれば、こんなもんができてしまうんだよねえ」とか何とか言いながら、細々とではあるけれど、どこかで綿々とつくり続けられていたようなのである。

医療用のガラス 左は胃の洗浄用
佐賀でつくられた物が多い
江戸後期〜明治
それが大量に入ってきたのが信長や秀吉が日本中をかけまわっていた鎖国前なのである。
ある殿様などはひとつ取っ手がとれたガラス器をポルトガル人からもらって、たいそう喜んだという話も残っている。
だからガラスをび一どろとかギヤマンといったのはポルトガル語に由来する。
その後、鎖国になって日本中の港は閉ざされ、
長崎というたったひとつの入口からオランダと中国だけを相手に貿易するようになったけれど、しっかりポルトガル語の言葉だけは根づき、「ガラス」という言葉が使われ始める明治まで残っていたのである。
では、ぴ一どろとギヤマンはどう違うのか?
「同じ昔のガラスである」という人もいるが、ガラスはガラスでも歴然と区別があったという説もある。
「び一どろ」はヴィードロというポルトガル語でこれは一般的に日本でも多くつくられた薄い吹きガラスのことである。
それに対して「ギヤマン」は同じポルトガル語でも「ダイヤモンド」を意味する。
つまりは、ダイヤモンドのようにキラキラと光って美 しく、無色透明、その上カットまで入っている上等この上ないガラスを「ギヤマン」と呼んだのである。
「ギヤマン」は最初、ヨーロッパからやってきたガラスの総称でもあった。
けれど江戸期も終りに近づくと、次第に日本でもすばらしく技術が進歩して、ヨーロッパ製に負けずとも劣らぬガラスが生み出されるようになってきた。
そうなったらもう区別がつかない。だから、その日本製をもギヤマンと呼ぶようになったのである。
だから輸入品か国産かは関係なく、び一どろは当たり前のごく庶民的なガラス、そしてギヤマンはヨーロッパからのクリスタルカットなどの輸入品や、それに近い日本製の上質なガラスを示す言葉となったのである。
瑠璃色徳利 江戸後期〜明治初期
■ガラス製造事始
どこかで細々と、そして綿々と伝えられ、つくり続けられていたガラスは別にして、ガラスという認識のもとに日本でガラス製作を始めたのは長崎である。
1570年頃に、2人のポルトガル人のガラス技師がやってきたという説もあるし、1575年頃、オランダ技師によって伝えられたという説もある。
いずれにしても、その地が長崎であることは確かなようだ。
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1570年代といえば、信長が隆盛を極め、武田信玄が死に、室町幕府が滅亡した頃である。
当時の製作記録として残っているのは、ガラス関係のどの本を見ても必ずといっていいほど参照している末次平蔵茂朝という長崎貿易商の話である。
彼は幕府に密貿易がバレるというヘマをした。
そのため、財産を没収されてしまったのである。それで彼が扱っていた商品目録が残されたのだ。
それが1676年で、その中に明らかに日本製と思われるガラスの花瓶が含まれていたのである。
かなりの処罰を受けた平蔵さんにはお気の毒だったけれど、おかげでわずかながらも日本のガラス製作の手がかりが得られたという訳だ。
しかし考えてみると、長崎というのは不思議なところである。
日本に鎖国がなければ、何の変哲もなし、小さな港町にしかすぎなかった。
だいたい外国の船はまず南の島にやってきた。
それからトントンと島づたいに上ってきて、薩摩に着いた。
フランシスコ・ザビエルだって今からちょうど450年前に着いたのは薩摩である。
それが、どうして外国との窓口なら長崎ということになったのか。
ご存じの通り、鎖国前の日本は別に長崎だけが窓口なんて決まってはいなかった。
だから、薩摩に着いた外国船、当時はポルトガルと中国船だったが、それらの船は長崎の方にもやってきた。
ここでキリスト教が関係してくる。この頃のポルトガル船が日本に来る大きな目的のひとつにキリスト教の布教があった。
薩摩だってキリスト教を絶対ダメといった訳では決してないけれど、長崎の方は大手を広げて迎え入れたのである。
歓迎される方に人は行く。そのうちオランダからも船はやってきた。
平和に交易は行われていたのである。
それがいきなりの鎖国である。外国船にとってどこが便利か?
長崎だ、ということになった。
当初は長崎の中心からちょっと離れた平戸が中心だったけれど、キリスト教なんて危ない宗教を広められちゃカナワナイ。
だったら外国人は1ケ所にまとめてしまえ、ということで、長崎の真ん中を埋め立てて、出島を作り、その中以外は外国人は歩くことすら許されなくなったのである。

手ぬぐい掛け
江戸後期〜明治初期
だから江戸時代に大志を抱き、広く世界から何かを得たいと望んだ人はみんな長崎に行った。
長崎は文化の、そして学問のパラタイスだった。長崎から持ち帰ったものは、みんなハイカラで素敵なものだっった。
外国語も医学も天文学も長崎から日本中に広がった。カステラも入ってきて、甘い長崎みやげになった。
カステラがまず長崎でつくられたように、ガラスだって長崎でつくられた。
カステラは腐ってしまうから、ポルトガルから持って来るわけにはいかなかったけれど、ガラスは腐らないから外国製もどんどん入ってくる。
それが日本製とごっちゃになって、今になって区別がつかなくて困っているものもある。ただ、おおよその見分けはつけられる。もともと原料が違うのである。
日本のガラスの原料は中国から輸入されていたらしい。技術はヨーロッパからなのに少々変な気もする。
たしかに目指した形はヨーロッパ風である。ガラスがつくり始められてから江戸期を通して、日本のガラスは鉛ガラスだった。
ヨーロッパのガラスにはソーダガラスもあったけれど、もちろん鉛ガラスも存在していた。
しかし、ヨーロッパのそれは酸化鉛といって鉛と酸素の化合物なのである。
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左 盃他は雛道具
右は泥金彩をほどこしてある
江戸
それに比べて日本の鉛は金属鉛で、この製法は中国の宋代からの流れを汲むものなのである。
び一どろというポルトガル語で呼ばれるガラスは、オランダからくるガラスを模倣したもので、その原料、製法は中国からの輸入ものだとは、なかなかのミキシングでおもしろい。
だからこの頃のガラスはヨーロッパのガラスと色が違っている。
日本のガラスはどうがんばってもあの透明感が少ないのである。
ちょうど練り飴を練り切っていない感じである。そして気泡が各所に入っているのである。
はじくとヨーロッパのガラスはキーンと金属音がするが、日本のそれは、チーンと風鈴に代表されるような音なのである。
完成度を研ぎすまされた美とすると、はっきりいって出来がイマイチなのである。
けれど、ヨーロッパ製のものでもイマイチのものは含まれていたし、日本製だって、出来すぎるくらい上等なものもある。
だから、混じってしまった。
ただひとつワイングラスだけには象徴的な特徴がある。日本製のワイングラスは台が小さいのである。
つまりグラスは上から丸いボール形の器があって・その下にステムといわれる支え棒があって、その下が台である。
その台の部分が上のボールよりもだいたいにおいて小さい。
だから、安定が悪い。なぜか?分からない。
実際、その理由は今もって不明なのである。
けれどこれは日本製の極めて重大な特徴なのである。
それにしてもこの金属鉛、かなりやっかいなシロモノで、ヨーロッパではほとんど使われていないなぜなら、
金属鉛は加えすぎるとるつぼ、つまり下から火をあてて、中でガラスのもとをドロドロに溶かす壷自体を傷つけててしまうのである。
極端な場合、るつぽそのものが金属鉛と反応してガラスになってしまう危険性だってある。
それに、鉛を入れすぎたガラスは、酸に弱く薬品の容器にも適さず、溶出する鉛毒のことを考えると、食器としてもいただけないのである。

漆、泥絵徳利 江戸後期〜明治初期
けれど、日本では危険を承知でこの金属鉛を多量に使わざるをえなかった。
なぜか?それは鉛を入れると低温で溶けるのである。
そして、やわらかくなる。だから細工も簡単にできるのである。
当時の日本の工房の規模なんてたかが知れていた。
家内制手工業のように小さなものである。
当然火力は木炭で、七輪みたいな火の上に小さなるつぼを置いてせっせと火をおこしてガラスを溶かしたのである。
ヨーロッパでは18世紀の半ばにはもう産業革命が始まり、技術も格段に進歩し、大規模工場も次々に建てられ始めている。
だから、大きなるつぽを使って高温で熱することもできたのである。かたや日本ではそんな設備は考えも及ばない。
だから鉛を入れた。
しかし厚手で形の凝ったものはなかなかつくれない。
いくら鉛を加えても、ホロホロと壊れてしまうのである。
なぜなら、冷却が難しかったからである。
実はガラスづくりにおいて一番難しいのは、吹くことでも、形をつくることでもなく、冷却することなのである。
ピーンと薄いガラス。
そんなガラスを見ると、さぞやつくるのは難しかろうと思ってしまうが、逆なのである。特に鉛ガラスの場合、厚ければ厚いほど、その製造は困難なのである。それに厚みを必要とすると、高価な鉛をふんだんに使うことになる。
すると当然値段はどんどん上がる。
もちろん庶民にはとても手の届かない品になる。
だから、江戸期に庶民に流行したガラスは、油差しみたいな形をした吹くとガラスの振動でポッペンと音が鳴る、その名もポッペン(現在、長崎でお土産用として売られている、いわゆる「ビードロ」)や風鈴といった薄づくりのもので、そしてそれはパリンと割れて、後世に残ることもなかったのである。
このガラス製作の技術は1700年代半ばには大阪に伝わり、江戸には少し遅れて1800年代の初めに伝わったようである。
その間に佐賀や京都などにも広まった。

盃各種 江戸後期〜明治初期
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